下田について

下田の歴史

ペリー日本来航

1852年ペリーは11月24日アメリカ東海岸ノーフォークを出航同、日本に向かった。当時アメリカでは、西海岸が開拓され、さらに捕鯨業がさかんになってきたため、太平洋の重要性が高まったため、日本との国交はアメリカにとって欠かすことのできないこ存在となった。ペリーは12隻の大艦隊で日本に向かう予定であったが、故障する船や予定の立たない船が続出し、ペリーはやむをえず海軍の蒸気船ミシシッピー号に乗り、日本に向かった。アメリカ東海岸から大西洋を南下、インド沖から東南アジアを通過し、中国広東に寄港し、蒸気船2隻・帆船2隻からなる艦隊を編成し、日本に向かった。そして途中琉球・小笠原諸島を経て江戸湾三浦半島の浦賀沖に来航したのは1853年7月8日のことであった。

日米和親条約

ペリーは、アメリカ大統領の開国提唱親書を久里浜で日本側に渡し、翌年の再来航を約束して、いったん中国上海に向かい、浦賀に再来航したのが1854年の1月、そして3月31日、日米和親条約が横浜で締結され、その中で決まったのが、下田と函館の開港とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障であった。

ペリー下田来航

開港された下田には、ペリー艦隊の船が続々と入港してきた。ペリーを初めとするアメリカ人たちは下田湾の美しい風景に簡単の声を上げたと言われている。またペリーは下田の町がきれいに整備され、下水が川に直接流れ込まないように川の脇に下水溝が作られていたことでしたているのに感心した。日本でしかもこのように小さな町で、西洋の中心都市にあるような下水溝の設備があるなど、彼らの常識では考えられないことであった

日米下田条約と了仙寺

下田に上陸したペリーは早速日本側と細かい条件の交渉に入った。その場所となったのが了仙寺である。十日間にわたる協議の結果、1854年6月17日米下田条約が結ばれた。この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられた。これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験した。了仙寺では、下田の町民たちを対象としたコンサートがアメリカ海軍の軍楽隊によって開かれた。これが日本での最初の洋楽のコンサートである。

参考:了仙寺HP

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